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大山神社(おおやまじんじゃ)は、島根県隠岐郡西ノ島町に鎮座する神社である。式内社で島前西ノ島の最高峰である焼火山の北麓、大津集落の東に鎮座する旧村社。焼火山の中腹に鎮座する航海安全の守護神として広く信仰を集めた焼火神社とは密接な関係を持っていた。 == 祭神 == *大山祇命(おおやまつみのみこと) 特に異説を見ないが、本来は「大山(おおやま)」と称されていた焼火山を神体とし(神体山)、山自体を祀るものであったとされている〔『式内社調査報告』。〕。 == 由緒 == 創祀の年代は不明、上述したように元来は神体山としての大山(焼火山)を祀る神社として創祀されたと見られている。なお、鎮座地の西方200mには古墳時代中・後期の祭祀遺跡と見られる兵庫遺跡(へいごいせき)があり、農耕に係わる水または泉の祭祀が行われていたと推測されているが、当神社との関係は不明である〔『島根県の地名』。〕。 早くから中央にも知られて『延喜式神名帳』に隠岐国知夫郡の小社として記載、また神階の授与は知られていないが、『隠州神名帳』には「従三位上(ママ)〔従三位「上」という位はない。〕 大山明神」と記載されている。山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期(11 - 12世紀頃)に、焼火山の神が航海安全の神として崇敬を集めるようになり、また山岳修験の霊地として修験者による雲上寺(焼火神社の旧称)が開創されると〔『島根県の地名』。詳しくは「焼火神社」参照。〕、その別当が神社の祢宜職を務めるようになった〔。 中世には、隠岐国の安定した支配を目指す守護の佐々木氏が当神社の掌握に努めたようで、建治2年(1276年)に守護佐々木泰清は、当時の祢宜で百姓との対立から立場的に危機に陥った僧慈蓮の祢宜職を安堵し〔建治2年9月5日付「佐々木泰清袖判下文」(笠置家文書)。〕、正中3年(1326年)には同じく守護職で泰清の孫にあたる宗清と推定される人物が、僧蓮浄を「建治の下知に任せ」て祢宜職として社務以下を務めるよう補任している〔正中3年4月7日付「某袖判下文」(笠置家文書)。なお、慈蓮も蓮浄もともに「重代相伝の所職」(代々の職)として祢宜職を安堵されており、これら社僧は雲上寺の別当であったと見られる(『式内社調査報告』)。〕。一方で、神社側(祢宜職側)も鎮座地を中心とする現在の美田一帯が荘園に編成されて美多庄(美多院とも呼ばれる)となって以来、守護権力と直接結びつくことによってその支配体制から逃れるように企図し、ここに両者の緊密な関係が生じたとされている〔『島根県の地名』。なお、美多庄は現西ノ島町美田を中心に東は同町別府から西は同町浦郷にかけて、西ノ島のほぼ東半分に設定された荘園と見られているが、領主である本家や領家は不明である。〕。しかし、この関係も南北朝時代頃には大きな転換を迎え、建武元年(1334年)に美多庄の代官である西領と公文の道賢が、領主の命を受けて庄内の一部を「大山宮祢宜分こうし(麹)料畠」として割くなど〔建武元年5月6日付「沙弥西領僧道賢連署打渡状」(笠置家文書)。「こうし料畠」は神酒を醸すための麹(こうじ)を供出するための畠と見られる(『島根県の地名』)。〕、美多庄の支配下に組み込まれつつある状況が現れ、応安2年(1369年)には上掲蓮浄の没後空席となった祢宜職が公文道賢に与えられているので〔応安2年6月24日付「某充行状」(笠置家文書)。〕、ここにおいて美多庄に完全に組み込まれたものと推定され、これ以降は当神社に関する文書が見えなくなり、それ以前の関係文書が道賢の後裔と思われる笠置氏に伝えられている(現笠置家文書)のも、そのことを示すものであると考えられる〔。 その後の沿革は詳らかにしないが、近世には「焼火山大権現」と呼ばれた雲上寺に包摂された如くで、笠置氏による神主職は置かれたものの雲上寺が別当として管掌し、10石あったといわれる社領〔文政6年(1823年)の『隠岐古記集』。〕も実は雲上寺の知行であり、遂には「大山の神」とは焼火権現(雲上寺)であるとの認識を生じるに至った〔『式内社調査報告』。大山神を焼火権現と見た例として、寛文7年(1667年)の『隠州視聴合紀』に「按ずるに(延喜式)神名帳、知夫郡に大山神社有り、此は山上の焼火ノ神か(原漢文)」とあり、『大日本史神祇志』に「大山神社、今美田郷波止村(はしむら)焼火山山上に在(ま)し、焼火明神と称す(原漢文)」とあるのが挙げられる。〕。 明治初年の神仏分離で焼火権現と離れるとともに、『延喜式』により「大山神社」を正式な社名とし、明治5年(1872年)に村社に列した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大山神社 (西ノ島町)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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